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禅語「松樹千年翠」に学ぶ
「しょうじゅせんねんのみどり」と読みます。変わらぬものの価値という意味です。禅では、変わる物、変わらない物をはっきりと区別します。変わる物は、今風に言えば、VUCA(Volatility,Uncertainty,Complexity,Ambiguity)と言いましょうか。一方、変わらない物、天体、石、山など、、、絶対的な存在感があります。そして、その背景には、変わらない事忘れがちですが、それを維持するために、絶え間ない努力が行われています。そこに価値を見出しましょう。 論語では、「子曰、歳寒、然後知松栢之後彫也」[子罕篇9-29]「子曰く、歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る]と読みます。寒さが厳しい季節になって初めて、松や柏が翠のままで枯れないことの凄さに気付く。という意味です。信念をもって、地道に努力して備えることで、苦境に対処できるのです。BCP的な備えでしょうか。
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禅語「明珠在掌」に学ぶ
「みょうじゅたなごころにあり」と読みます。だれしも、尊い物を持っている。と言う意味です。それに気づかず、強欲になり、一喜一憂、平常心を失う。外面だけでなく、内面を見つめよという意味もあります。気づかないことは不幸です。この言葉、自分に対しての言葉ですが、転じて、「気づき」を与えることが自身の天命と悟りました。
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禅語「掬水月在手」に学ぶ
「みずをきくすればつきてにあり」と読みます。月夜の晩に水を手で掬えば、誰しもが手の中に月の姿を掬い取ることができるという意味です。月の光(美しい物)はすべての人に平等に注がれている。それに気づくには、無垢な心がひつようだ。不平等、差別という前に、自身の心を磨きなさい。月は遠くにあって美しい物、ただ、水を掬すれば、ほら、手の中にあるでしょう。ということです。禅では、素直な心と働きかけそして気づくことが重要と説きます。
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禅語「山是山 水是水」に学ぶ
「やまはこれやま、みずはこれみず」と読みます。あるがままを見るという意味です。そして、本質をスパッと切り出す。善と悪、虹の色の境目等、曖昧さや境界線をはっきりさせるという意味合いもあります。この曖昧さや境界線のブレは、妄想や思い込みあるいは迷いの産物。
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禅語「眼不自見 刀不自割」に学ぶ
「めはみずからをみず、かたなはみずからをさかず」と読みます。自分で自分を見ることはない、刀は自を斬ることはない。当り前のことですが、これは、「正しい」セルフイメージを持ちなさいということです。多くの場合、セルフイメージをひいき目で描いてしまいます。自分のイメージは、自分が描く物でなく他人からどう見えるか?であり、評価も自己評価でなく、他人からの評価であるべきという意味です。歪んだ鏡でなく、平面鏡で等身大の自分を正しく見つめましょう。そして、苦言や意見を素直に受け止めましょう。苦言、意見を言っていただける内が華なのです。 以前、「ジョハリの窓」というお話をしましたが、「自己理解」という意味でも、通じる物がありますね。
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禅語「無功徳」に学ぶ
「むくどく」と読みます。「行為に対して功徳(報酬)を得る」という理屈と、「功徳は行為をする瞬間に与えられる」という概念。前者は、頑張るといいことがある。という考え方で現在を犠牲にした未来を期待しています。これに対し、後者は、行為中に楽しいという功徳を得ており。現在を犠牲にすることはない。つまり、行為を義務や苦労とは考えず、楽しいこと(趣味/遊び)と捉え、行為そのものが楽しく苦にならない。この言葉は、達磨大師が禅を中国に伝えたとき、当時の中国で権力を握っていた武帝(ぶてい)に対して説いたされます。インドから戻ってきた達磨大師に対し、仏教への信仰が厚く、寺を建立したり仏教を学んでいた武帝が質問します。 武帝:私はこれまで仏教を学び、多くのお経のを写し、僧侶を育て、お寺を建立してきました。 この私にはどのような功徳があるのでしょうか達磨大師:「無功徳」 大谷翔平選手は、野球が楽しいからやっている。巨額な年俸以上に報酬を得ていることになる。仕事を遊びにして楽しむ。ということで、「仕事を楽しむ」ということは、金銭的対価と、精神的な慶びの2つのを報酬を得ることになる。 論語に、「子曰...