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禅語「知足」に学ぶ
「足(た)るを知る」と読みます。満足することを知るという意味です。人の欲求は際限がありません。しかしながら、自分の器以上の過剰な欲求は、害をなすことも少なくありません。更に、常に足りないというはストレスフルです。先ずは、自分の器の範囲で、満たした満足感を味わった上で次に進むほうが、充実して人生を送ることができます。「成長を制限しろ」ということではなく、自身の器を見極め、それを満たしたら、器を広げれば良いのです。「身の丈に合った」という事かも知れません。 とあるお寺に、「足(た)るを知る」と書いた額があり、外国人の方が、この額の前に立ち止まっていたので、「enough」と説明しましたが、もしかしたら「know sufficiency」だったかも知れません。 食べ過ぎてしまった時、この言葉を思い出し、自分を戒めます。余談ですが、「大食い」というバラエティには、矛盾と無駄を感じ、怒りすら覚えます。余っている食材があれば、戦火の地域やアフリカ等に送るべきですし、それで、何人の子供たちが救われるのでしょうか。平和ボケなのでしょうね。
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禅語「他不是悟」に学ぶ
「たはこれわれにあらず」と読みます。自分でなければ。。。という意味ですが、俺が俺がという事でなく、自分しかできないことだから、自分でやる。他人がやっては意味がない。代替が利かないということです。例えば、替わりに食事をしておいて。これって無理ですよね。更に、自分にしかできないことを見つけないさい。というメッセージにも聞こえます。昨今、AIに仕事を奪われるのではないか。という議論もありますが、自分にしかできないこと必ずあるはずです。
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禅語「祗是未在」に学ぶ
「ただこれみざい」と読みます。ひとこと、「まだまだ」という意味です。そして、その裏側には、「もっと、行ける」という意味もあります。「もう十分だ」と思った時、成長が止まります。
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禅語「浅水無魚 徒労不釣」に学ぶ
「せんすいうおなくして、いたずらにかちょうをろうす」と読みます。漢字を見れば分かりますね、「魚がいないようなところで釣りをしても無駄だ」という意味です。当り前のことですが、実は外部環境(魚がいないこと)が分っていないことも多々ありますね。又は、思い込み等により、外部環境が見えなくなっている場合もあります。一歩下がって、広い視野で素直に見直すことで気づくことも少なくありません。「3歩進んで、2歩下がる」というのも、正攻法かも知れません。
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禅語「施無畏」に学ぶ
「せむい」と読みます。あるいは、無畏施と表記する場合もあります。施とは、「布施」の事であり、無償で分け与えるという意味で、仏教では、三施と言われる。①財施:金銭財貨を与える、いわゆる、お布施②法施:(弟子に)教えを施す③無畏施:畏れる気持ちを除く(畏れなくても大丈夫と安心させる)三つ目の無畏施は、釈迦如来が、右手の掌をかざす姿で、このポーズを「施無畏印」と呼びます。相手を安心させる時、掌を見せますね。これは、武器を持っていませんという意味もありますが、何か、安心のエネルギーとか、オーラとか、掌から何かが出ているようにも思えます。 ※因みに、阿弥陀如来は、天国を司る仏で、「無畏」のサインに似ているのですが、天国でお出迎えをする際は、親指と人差し指で輪を作ったサインです。これは、Welcome(ようこそ)、Leave it to me(任せなさい)という意味です。
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禅語「隻手音声」に学ぶ
「せんしゅのおんじょう」と読みます。これは、「両手を打つと音が出る、片手ではどうか?」という、禅問答の公案です。「音なき音が鳴る」とか、「片手には潜在的な無音という音を持っている」などの問答があるらしいですが、講釈はさておき、行為と目的という観点で考えると、そもそも、手はいろいろな操作をするための手段であり、それぞれの操作には、音を伴う。操作には、目的があり、目的操作音という関連性が考えられる。そう考えると、両手を打つという行為は、目的がなく、操作があり音があるという、一般的なことではなく、特殊な行為と考えることもできる。確かに、手を打つということは、両手で何も操作していない状態であり、目的がないのである。否、「神社での柏手」は目的があるのではないか。等、延々と議論が続く。 さて、目的とは、「多目的トイレ」というものがある。トイレの目的は、「用を足すこと」だけではないか。英語のWCは、Water Closetであり、水回りの場所であることを考えても、目的が限定される。「多機能トイレ」ではれば、意味はわかりますが。